亡夫・長谷川恒男は、アルピニストであり、ヨーロッパ、アルプス三大北壁を冬期に単独で初登攀、その後も南米大陸最高峰アコンカグア南壁冬期単独初登攀し、内外にその名を知られるようになった。
その夫が20年前の1991年秋、パキスタン・フンザにある当時未踏の7000m峰、ウルタル2峰を登攀中、雪崩に巻き込まれ死去した。
遺体はウルタル峰のベースキャンプまで運ばれ、副隊長だった私の判断で3300mのその地に墓を作って埋葬した。
あの事故から昨年の10月10日で、20年という歳月が流れた。
毎年命日に開催される「日本山岳耐久レース長谷川恒男CUP」の第1回大会から私は名誉顧問として関わってきた。
大会そのものが「ハセツネ」と称されるようになり、登山界でなくトレランの「ハセツネ」がブランド化したことには、夫がいちばん驚いていることだろう。
アルピニストの長谷川恒男ではなく「トレランのハセツネ」が彼の死後に著名になる、という予期せぬ現象が生じたとき、私は「ハセツネ」の商標登録をした。
夫の墓はパキスタンにある。
しかし日本には何もない。
昨年の没後20周年をひとつの区切りとして、国内のどこかに墓に代わる記念碑あるいはモニュメントを作ってもいいのではないか、そうした周囲の声が聞こえてきたとき、私はそれなら「ハセツネ」コース上にと迷わず思った。
石を運び上げる作業や設置許可を考慮すると、コース上でそれが可能であるのは、第3関門地点にあたる長尾平、青梅の武藏御嶽神社境内地だった。
昨年の20周年の命日は通常は「ハセツネ」大会当日なのだが、4年に一度のあきる野市議会議員選挙のため、スタート地点の学校校庭や体育館などの諸施設が、投票などで使用できない。
開催が2週間遅れの月末になるので、10月10日は石碑除幕式に充てられる。
また設置記念のイベントも同時に開催したいと思い、神社や東京都、国立公園の許可、石の選定や彫刻家など多くの方々との打ち合わせや設置作業に3年近く費やした。
2011年10月10日午前10時、石碑前で私はスタートホーンを押した。
記念イベント「フォトロゲイニング」のスタートだ。
「東京ハセツネクラブ」のスタッフが企画、インターネットで募った参加者100名は、12時までの2時間、御岳山周辺のチェックポイントを回って指定の写真を撮影した。
表彰式のあと、午後1時、武藏御嶽神社宮司が祭主となり、石碑除幕式ならびに長谷川恒男大人命二十年祭を執行した。
青梅市と姉妹都市ドイツのボッパルト市長も飛び入りで参加し玉串奉奠をしてくださった。
祭壇には亡夫の肖像画とともに「金のピッケル」(ピオレドール)も供えられた。
ウルタルでの遭難の悲劇から20年、「日本にようやく帰ってこられた」と遺影が安堵したような笑顔を見せた。
あれから1年、また「ハセツネ」の季節が巡ってきた。
今回は記念すべき第20回大会だが、これを始めた当初は誰もが20 回まで継続するとは想像だにしなかったと思う。
この大会に賛同し、協力してくださった地元の協力会、協賛企業、ボランティア、参加者とそのご家族、多くの方々の「思い」と「絆」がこの大会を20 回まで牽引してくれたのだ。
またこの間、東京都山岳連盟会長を務められた、故・小林勉氏、山本久子氏、故・森谷重二朗氏、佐藤旺氏ならびに歴代の大会実行委員長に心から感謝の意を捧げたい。
亡夫・恒男は冬期単独登攀に命をかけたが、彼はそれを決して孤独とは表現しなかった。
多くの仲間や支えがあるとき、自らが行なう行為は決して孤独ではない。
むしろ周囲に人が大勢いても自分を理解してくれない人たちばかりだったとしたら、それこそ孤独というものだろう、自己を表現する方法が見つからない人こそが、はるかに孤独なのだ、と語っていた。
ランナーもまた同じ意味で孤独ではないと思う。
家族や仲間、自分のことを理解してくれる人々がいるからこそ、精神と肉体の限界にチャレンジできるのだろう。
大自然のなかで自己表現できる、ともに走った仲間やライバルがいて思いを語れる場がある。
自然のなかで得た体験を、自らの言葉で語れる表現者となってほしい。
「トレラン文化」という新しい歴史を作っていってほしい。
走ることも登ることも「生きる証」。
亡夫・恒男は第三関門長尾平で、前を通過していく選手たちに必ずメッセージを送っているはずだ、「生き抜くことは冒険だよ」と。
文・長谷川昌美